万倉護国神社

   黄泉(こうせん)の武士

あな勇ましのや武士(もののふ)や 
君が御為に身を捨てて
戦(いくさ)に立つる旗のごと 
御霊(みたま)ぞ世々に仰がるる
あな勇ましの益(ます)良雄(らお)や

あな勇ましの武士(もののふ)や 
國の御為(みため)に身を捨てて
戦(いくさ)にかざす盾(たて)のごと 
御霊(みたま)ぞ世々に輝ける
あな勇ましの益(ます)良雄(らお)や

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万倉護国神社朱印 国司信濃親相命 黄泉の武士
   
国司公の像並びに筆跡の歌碑
「跡たれて君をまもらむみどりそう
万倉の山の松の下かげ 親相」
元治100年記念事業
昭和39年11月12日除幕
国司信濃像の揮毫は毛利元道氏による
万倉護国神社全景
正殿の左に、国司公の像並びに英霊の墓標
そして国司公顕彰碑。
右には、井上幾太郎大将の像を見ることができる 
井上幾太郎大将像

鎮座地: 宇部市大字西万倉496番地 アクセス(地図)

御祭神国司信濃親相命(くにししなのちかすけのみこと)、市川守雄直則命(いちかわもりおなおのりのみこと)ら大東亜戦争まで国難に殉じせられた204柱の英霊

例祭
さくら祭:4月12日、みたま祭:8月9日、墓前祭:11月12日(国司公殉難の日)

神紋
二輪違い(主祭神 国司信濃家の家紋)

由緒
幕末期の慶応元年(1865)、長州藩政府は藩主 毛利敬親公の意を受け、各郡に招魂場を設置し、春秋の祭祀を行う。慶応3年(1868)、万倉村主 国司健之助純行は土井垰山に招魂場を設置し、禁門の変(蛤御門の変)の責を負い自刃された義父信濃公をはじめ、戦死した26名の英霊を祀る。
明治34年(1901)官祭招魂杜となり、昭和14年(1939)指定外護国神社となる。昭和17年(1942)、口ノ坪の現在地旧城山において、村民各種団体の奉仕によって、山を三分の一位掘下げて境内地を造成し、新たに社殿を新築する。同年4月11日遷座祭。ここに、万倉護国神社として平和の神として奉齋する。
一方、招魂場のある垰山に、平成6年(1994)車の参道を造営する。これは一般の寄附と役員の奉仕作業により完成。同所を史跡としても活用し、若き世代の人々にも関心が持てるようにしていくことを意図しての事業であった。

万倉護国神社の母体なる招魂社の起源
嘉永6年癸丑(みずのと うし)以来、国難に殉し忠節に死したる者、又は明治の初、戊辰役(ぼしんのえき)に、従軍して戦死せられし者等の忠節を嘉(よみ)し、永く其英霊を慰められるべき特別の御恩召を以て、明治元年5月10日京都東山に、新祠を設け、右の英霊を合祀せらるべき旨太政官布告を以て仰出され、之が招魂杜の起源である。その後各地の藩主此の聖旨を体し、各地方に縁故ある殉難者の霊を祀る者相ついだ。(長州藩の招魂場について
明治7年、内務省通達を以て各招魂場は爾後一切官費を以て維持せらるべき旨通達さる。明治8年、従来京都東山に合祀せられたる殉難戦死者のみならず、当年迄各地に於て皇軍に斃(たお)れたる者の英霊を合せて、東京招魂社に合祀、各地の招魂場は、招魂社と改称してそのまま存置される。

明治12年、東京招魂社は靖国神杜と改称し、別格官幣杜に列格せられたり。
一般の招魂社は明細帳調達せしめられ、受持神官を置くべく定められる。

万倉村招魂社は、慶応3年11月 国司健之介純行の創建、祭神は国司信濃親相公を初めとして禁門の変時、忠死せる人19名、慶応2年四境役(しきょうのえき)12名、明治7年佐賀役2名を合祀せり。ついで明治10年西南役4名、明治27年日清役6名、明治33年北清役1名、明治37、8年日露役11名、大正7年シベリア役2名、昭和10年満州匪賊討伐2名、昭和12年日支事変13名、昭和16年大東亜戦争132名計204柱の英霊を合祀せられたり。処は国司家の練兵場であった地に垰(たお)招魂場との名称で呼ばれ現在にいたったが、平成の現在に至り、参拝等を鑑み、招魂場の英霊の碑、史跡等を万倉護国神社に移管すべしとの機運高まり平成18年春、万倉護国神社奉賛会が中心となり、万倉遺族会からの寄付、ならびに奉賛会各位崇敬者からの寄付を募り秋に完成。現在万倉招魂社(通称 垰招魂場)は、記念碑がその記録をとどめている。

万倉招魂社(垰招魂場)
現在は奥の国司公を始め英霊の碑は万倉護国神社に
移管され前の吹きさらしの拝殿のみが寂しく建っている
万倉招魂社への登り道。横には車道があり、車でも登れる
国司公顕彰碑(現在は万倉護国神社境内に移転)
碑文は別記


万倉護国神社は昭和15年、戦時体勢長引き戦死者続出、祭神遺族の参拝の便をも考へ、万倉村会の意見、県庁の意見をも聴き、候補地となりし口ノ坪の小高い山林は、ロノ坪の元、末富蔵人丞重泰の城山で、現在柿並一男氏名義の地にあたるが、父義介氏の快諾を得ることができ又万倉天満宮御旅所なれば、其の関係者とも協議承諾も得ることができた。そのため山林開拓には、万倉村民一切挙げて各種団体員男女問わず再三にわたり勤労奉仕により、山の三分一程度堀り下げた。また将来境内樹木の発育を考え、西側の田畑一反七畝余り神田として買入れた。終戦后神社存廃問題起るや、昭和21年12月1日の崇敬会に於て、維持存続に決定し万倉護国神社奉賛会として現在に至った。その後、前記垰招魂場の英霊の碑、史跡は平成18年秋社殿の横に移管された。

禁門の変(蛤御門の変)
元治元年に起きた戦い。尊皇攘夷を掲げ京都で政局に関わっていた長州藩が、藩主の冤罪を帝に訴えるため、会津藩、薩摩藩の兵と京都御所蛤御門の付近で会戦した。その際、内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に長州藩は幕府より朝敵として、その責を問われ、三家老の福原越後、益田右衛門介、国司信濃が切腹を命じられた。この切腹は佐幕派に頭を下げ、平謝りといった屈辱的な結果となったが、維新達成に必要な長州藩が存続でき、維新に活躍する志士が温存できたのは、日本の近代化にとってまさに幸運であったと言える。

国司信濃親相公について
国司家と万倉について


井上幾太郎大将について(下記)

井上大将は、万倉の芦河内(万倉護国神社より約3km北東) 井上清蔵の二男として生れ、日清戦争、北清事変、日露戦争に従軍する。大正5年陸軍省運輸部本部長、8年航空部本部長となり田中義一陸相と協力して陸軍航空兵力充実計画を推進。臨時航空技術練習委員会委員長に任命され、航空兵の育成に努力。航空大隊の増設,航空局の新設、陸軍航空制度委員会の設置など陸軍航空行政の原形をつくる。昭和2年陸軍大将。12年最後の在郷軍人会会長。







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