国司信濃親相公と万倉

国司氏が万倉の領主となったのは国司家10代備後守(びんごのかみ)就正(なりまさ)の時代で、寛永2年(1625)徳地邑伊賀地(いかじ)から移封されてきたのである。その際家緑2,089石から1,900石に減石になったが、これは当時藩内一斉に行われた知行(ちぎょう)改めによるものであった。
万倉は厚東氏時代の物部氏以来、末富、杉両氏が領主となったが、天文19年(1550))杉氏が滅亡、翌年大内氏が亡んで弘治3年(1557)に毛利氏が防長二州を統一。その後関が原の戦い以後毛利氏が中国8ケ国から防長2州に減封されて藩政が行われるようになって、久しぶりの領主として国司就正を迎えたのである。

さて万倉の給領は藩の直轄、国司家、宍戸家と分割されており、国司家の所領は矢矯の一部、今富、椋並、正楽寺の一部、土井、伊佐地、柏ノ木、大河内、信田丸、黒五郎、堀越、岩滝の一部)、櫃崎、梅田、西山、堀越。その他吉敷、大津、阿武の各郡下防長2州に散在していた。

国司就正は万倉領主となると、まず伊佐地に居館を構築するとともに正楽寺の荒廃した寺跡に一寺を建て、若王山宗吽(うん)寺(現在の天竜寺)と名付け、前領地佐波郡徳地伊賀地の西法寺から先祖の位牌を移し菩提(ぼだい)寺とした。
12代広直は若一(びやくいち)王子社(広矛神社)を祈祷所として再興し、14代就相(たかすけ)も社殿を再建して金属燈籠大小各一対を奉献した。このような社寺に対する事績は、菩提寺に対しては先祖の菩提を主としたもので、若一王子社(現 広矛神社)に対するものは領地領民のためが主であった。というのは歴代領主が毎年正月5日に若一王子社へ領内の五穀豊穣百姓安寧を祈祷したことからも伺える。

時代は下り、 21代国司信濃親相の世代となっては嘉永3年(1850)親相9歳の時、祖高師泰(国司家始祖師武の父)の追善を天竜寺で営み、16歳の時、安政4年(1857)飛弾守(ひだのかみ)元相(7代)の神祭を万倉で神職河本忠光・得良(ナリスケ)両神官の下、行っているがこれはいずれも代人を遣わしたものである。
親相が領主として初めて万倉へ来たのは万延元年(1860)19歳の3月21日であった。この時は居館に暫く滞在し、4月7日に兵百余名を引率して九郎五郎(黒五郎)に赴き大日峠で砲発の調練を行った。
時は風雲を告げ、馬関戦争、禁門の変へと多事多端激動の日々。そのとき歴史は動いた。いずれにしても勝てば官軍であるが、かくして長州軍は敗れた。親相、責任は重々感じていた。ただ藩主に捧げた一命。最善の方法は藩主の命にて決したい一念で、敢えて玉砕を避け帰藩。元治元年7月19日親相は、増田、福原とともに兵庫港から乗船、周防富海。そして大道を経由、万倉に寂しく帰領したのであった。

居館で夢を結ぶこと二夜にして8月7日警護いかめしい迎えの駕籠(かご)が到来し、徳山澄泉寺に幽囚されたのである。即ち生きて再び万倉の地を踏むことは無かった。

親相、結果万倉には19歳〜23歳の間、足掛け5年の領主であった。
公諱(きみいみなは)は親相、通称信濃。幼名熊之助。高洲氏に出でて国司氏を嗣ぐ。わずかのご縁であったが、信濃公の生を捨て、義を取り、身を殺して仁を為す。万倉臣民は公のことを永遠に忘れることはない。

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