國司信濃藤原親相公顕彰碑文

贈正四位国司君碑正二位勳一等公爵毛利元徳篆額



今上即位二十四年四月 詔贈故長門藩老臣国司信濃君正四位追賞其殉節也嘉永安政以来外患荐臻海内騒然我忠正公父子夙以勤王攘夷自任 朝廷依頼馬而幕府忌憚姦徒隙百方讒構遂罷藩兵衛闕停公父子參 朝一藩士民憤激将訴寃於闕下屯近畿者千餘人公慮其或生変特命君往鎮之君駐嵯峨益田親施福原元僴亦尋至倶興諭衆衆忿々不肯従間会薩諸藩将来襲衆益激昂欲直進以清君側君就烏丸侍従有所蹂弁而我衆已興会桑兵交鋒君亦為衆所擁遂進戦薩兵我襲我後我不利君抵天王山以為事至於比是因吾誠意未足以動人爾不若帰藩待罪也乃興益田福原等西還実元治甲子七月也無幾幕府發問罪兵君等従容就刑以白公寃事僅平君没後四歳王政復古又二十四年有贈位之典君之志於是呼伸矣按君諱親相通称信濃高須元忠第二子出為国司迪徳嗣国司氏本姓藤原世仕毛利氏食邑五千余石君為人沈毅有才辯好文嗜武最国風長馬関攘夷之挙君督軍事会撰鋒奇兵両隊以事相闘君慰諭甚力事乃鮮公手書賞之先是久留米藩囚志士十数人公承 朝旨命君往諭之藩侯延君於国黌老臣請介命君正色曰寡君有命豈宜委諸卿等乎進謁傳命辞気剴切矦大悟直釋之君以元治元年甲子十一月十二日没年二十有四葬於万倉山天龍寺先塋之次明年建祠於邸北美登理神社取諸其絶命詞也配浦氏実国司元善第二女於迪徳為女弟生一男曰兵助早没養志道親良次子純行為嗣今茲壬辰某等胥謀建碑於邑之招魂場請銘於予予興君相識義不可辞乃銘曰

為国引罪 従容就刑 心事明白
有如日星 天運循環 王権復古
優銘賜位 光於祠宇 万倉乃山
欝乎松枝 永廕英霊 以護邦基

山口県書記官
従六位 頓野馬彦撰

                碑文概要

今上即位二十四年四月、詔して故長門藩老国司信濃君に正四位を贈り、その殉節を追賞す。
嘉永安政以来開国は迫られ国内騒然、我が忠正公(毛利敬親)夙(つと)に勤王攘夷(じょうい)をもって自任し朝延依頼す。しかして幕府に遠慮し、その隙に乗じ佐幕側は多くの誹謗中傷。長州藩兵の京都における護衛の職を解き、その上藩公父子の参朝をも禁じた。長州藩士憤激まさに濡れ衣を晴らさんと朝廷に訴えんとして近畿に屯する者千余人、公、嵯峨に駐屯していた信濃親相に鎮めんことを命ず。益田親施(ちかのぶ)、福原元個(もとたけ)もまた信濃を尋ねともにあずかって衆を諭す。
衆腹を立て言うことをきかず。会津薩摩諸藩の来襲あり。衆激昂せざる無し、ただちに進んでもって信濃親相側の汚名を清めんと欲す。親相鳥丸にいる侍従に画策するも、わが衆すでに会桑(会津・桑名)の兵と鋒(ほこ)を交う。親相また衆の擁する所となり進み戦い、薩兵にわかに我を襲い我不利により君退いて天王山にいたり、「事ここに至る、もとより吾の誠意人を動かすに足らぎるためなるをもって藩に帰り罪を待つにしかず。」、益田、福原らと西還す。実に元治甲子七月なり。
いくばくも無く、幕府罪を問う兵を発し、親相ら従容として刑につきもって公の冤をすすぐ。冤わずか親相歿後四年にしてはれ。王政復古、二十四年贈位の典あり、親相の志ここに於いて伸ぶ。
諱は親相通称信濃、高須元忠の第二子である。のち迪徳の世継ぎとなる。国司、本姓は藤原。代々毛利氏に仕え五千石余り、人物は、沈着剛毅で才気と弁舌有り。文を好み武をたしなみ最も国風に長ずる。馬関の攘夷を企て、軍事を督し、高杉晋作の騎兵隊と親相の兵共に闘う。親相はなはだ勤め働きは鮮 公は書面にてこれを賞す これより先、久留米の藩の幽囚の志士十数名、公朝廷の旨を賜り親相に命じてなにとぞ穏便にと取りはかりを願い親相藩主と膝を接して命を申し上げた これによって久留米藩の幽閉されていた志士、罪を解かれた。
親相元治元年甲子十一月十二日以って没す。
歳二十有四万倉山天竜寺先塋に葬し、歳は二十三歳。
次いで明年祠を邸北に建てる。その絶命の言葉を取り配するなり。浦氏の養女、即ち弥佐子、国司元善の次女で一男を産み兵助といい早く没す。浦靭負(ユキエ)は藩の家老。國司元善の次女和喜子を養女とす。のち親相に嫁つぎ弥佐子と改める。
親相、志道安房(アワ)親良の次男、健之助を跡継ぎとして養子に迎える。即ち純行である。今茲に招魂場に碑を立て銘を請う

國の為に罪を引き
従容として刑に就く
心事明白日星の如く有り
天運は循環し王権復古

優銘位を賜り
光は祠宇を照らし
萬倉乃山
鬱蒼と松枝は茂り
永く英霊を覆う
かくして国の基をまもれ