黒船来航から禁門の変へ

歴史を学ぶとは、ことに正しい歴史を学ぶことは今に生きる我々にとって大変重要なことです。我々が戦後習ってきた歴史は、東京裁判史観がベースになっており、その執筆は西洋人の意向に沿って書かれており、公平な歴史とは言い難いものがあります。

中でも明治維新は、日本が文明国家になる極めて重要な歴史です。そこに生きた先人たち、我が万倉の領主國司信濃親相公もその一人で多くの幕末の志士が命に変えて日本のあるべき姿を探って突き進んでいたときです。その死は回り回って今この時代があることを知らねばなりません。

そこで今一度近現代史を学び、今置かれている日本は如何に舵をとるか、舵を取ると言っても私にどうこうできるものではないのですが、国民一人一人が正しい歴史を学ぶことが重要だと思い、ここに解りやすく幕末から維新の歴史を述べさせていただきます。

大阪近鉄奈良線の駅に河内小阪(かわちこさか)、八戸ノ里(やえのさと)という駅があります。両駅からだいたい同じ距離、歩いて約500mのところに司馬遼太郎記念館があります。

彼の住まいの敷地の中に記念館が有り、一度訪問して見る価値はある所で、何が展示されているかというと、彼が小説を書くために集めた資料が展示されているのです。その資料は2万冊。

驚きますよ、記念館の中に入って見ると、本棚の高さ11m、補助階段を利用しないと書棚の本が取れません。



司馬遼太郎記念館 内部

ところが、隣の本宅には4万冊の本がある。すなわち司馬遼太郎さんはこの合計6万冊の資料からその上澄みを掬(すく)い歴史小説を書いていたことになります。

司馬さんの上梓された小説は50数点です。即ち一つの小説を書くのに逆算すると1200冊の資料を元に書いていた。こんな逸話があります。「坂の上の雲」を執筆する際、「日露戦争」の資料を集めるため、司馬さんは神田の古本屋街にて、日露戦争に関する記述のある本をすべて買い集めた。当時同じ題材の戯曲を書いていた井上ひさしさんが神田古本屋街に行ったところ、ほとんどの「日露戦争」の資料が無かったと言われています。

その記念館で司馬遼太郎さんの動画を見ることができます。そこには何故歴史小説を書くに至ったかがわかるのです。

司馬さんは戦争末期、戦車部隊の隊員として満州に派遣されていた。ところが戦争末期、本土防衛と戦局が移るに合わせ、本国日本に呼び戻され、栃木県に駐屯。どうもアメリカは、東京上陸もあり得る、もし米軍が東京上陸となると、栃木の部隊は、東京に向かって移動しなければならない。その作戦についての演習が始まった、その時に上官の指揮に疑問を持つ。その時の、やるせなさ、失望、無力感、情けなさ、日本の上官はこんなものか、そんなことはない、幕末から明治にかけての、リーダーは立派だったのでは、そんなことから、司馬さんは、歴史小説を書き始めるのですが、故に司馬遼太郎の作品は幕末、明治が多いのです。

其の中で司馬遼太郎の「明治という国家」という本があり、その本の中で、当時幕末、幕府を倒した後で、国家の青写真を持っていたのは、坂本龍馬だけだったと書いてあります。

時の薩長土肥の志士たちは260年続いた幕府を倒す、そこにゴール設定を持っているのですが後の青写真がない。しかし何故坂本龍馬が青写真を持てたか、それは勝海舟という人物と会ったからだというのです。私達は勝海舟といえば、江戸無血開城の立役者程度しか学んでいませんが、いやいや、もっともっと学ぶべき偉人であるようです。

ところがその勝海舟、彼は最初からそんな先見性のある人物ではなくカッテンディーケという人物との出会いがあって、彼は世界を見る目を養うに至ったと書いてある。

さて、カッテンディーケと言われてピンときた人?みなさん、なに? その人は?程度でしょう。

坂本龍馬を作ったのは、勝海舟、勝海舟を作ったのはカッテンディーケとなるのです。しかし、カッテンディーケに至るまでも彼を導いた人がいる。

この勝海舟、メチャクチャ貧しい下級武士でした。父によって幕末の三剣士と言われた剣術の名手島田虎之助に預けられる。そこで剣術の修行を一所懸命やり、21歳で免許皆伝の腕前になるのですが、しかし、この師匠、島田虎之助が、これからは刀を振り回してる時代ではない。「いいか、これからは刀を振り回している時代では無い、蘭学を学べ」と、島田虎之助に言われるのです。

なんと、免許皆伝を受けた3年前にアヘン戦争が起きています。アヘン戦争というのは、イギリスが大清国を倒す。その時の清の人口4億人でした。しかしたった20隻のイギリス艦隊にコテンパン。眠れる獅子は張り子の獅子であったということです。

当時、日本が交易をしていた国は2カ国、清とオランダです。そこで西洋式の砲術、軍艦を学ばねばならない。其のためには清ではなくオランダ、蘭学を学べと師匠に言われ、さて外国の原書を読む時必要なものは辞書です。

当時googleなんて無い。電子辞書も無い。辞書がないとわかりません。

例えば「手紙」、中国ではこれトイレットペーパー。

「愛人」、中国では奥さん、日本では不倫相手。

漢字圏でもこんなに違う。ですから辞書が絶対必要です。

当時、蘭学の辞書といえば、ズーフハルマ ズーフとは、出島のオランダ商館長 ヘンドリック・ズーフが著した辞書。

58巻。でこれが60両です。今で言えば600万円。

貧乏な勝海舟に買えるわけない。どんなに貧乏か、それが「明治という国家」に長く書いてある。ある時、寒くて寒くて、あまりにも寒くて天井板を剥がし家の中で燃やしたと書いてあるけど、それほど貧乏。家の中から空が見えたと書いてある。

ところが、その辞書を持っている人がわかったのです。蘭学医が持っていました。この蘭学医は日本人で、早速、勝海舟は辞書を借りる交渉をする。

1年間貸して! もし貸してくださったら借り賃として10両払います」でもお金がないから後払いです。なんとか借りることができ、1年間で2部写すのです。でも昼間は仕事してるのですよ。すごいですね。

さて書き写した。そこで1部は自分の辞書に。そしてもう一部はなんと蘭学の先生が30両で買ってくれた。いやーおお助かり、このお金で借賃と生活費に当てる。やー助かった。でもこれが彼の蘭学の知識を飛躍的に上げる。やはり勝海舟、中々の人物ですね。

彼が28歳、蘭学塾を開くのですが、なんと2年後30歳の時。大事件が起きる。

さ! 何でしょう。

1853 ペリー来航です。黒船。江戸湾奥深くまでやって来て、今皇居の周辺は土地ですよね。でも当時は江戸城近くまで海の入り江があって近くまで船が来てたんです。

時に勝海舟 30歳 西郷隆盛 26歳 吉田松陰 24歳 坂本竜馬 18歳 高杉晋作 14歳 國司信濃親相 11

当時日本が持っていた船の19倍の大きさ、しかもスクリューですよ。日本人びっくり仰天、それまで日本の船はすべて帆船、帆掛け船だよ、または人力でエッサエッサと漕ぐ。

しかもあの太平洋を超えてやってきたように演出した、でも実際は、そうじゃないのですが。

アームストロング砲で、ドカーン、ドカーン ちょうどアメリカ独立記念日と重なって、祝砲だ、手な調子、ところがそんな事知らない幕府の幕閣は、びっくり。

あんな大砲打ち込まれたら江戸城なんか吹っ飛ぶぞ! 幕府の重鎮は、右往左往。どうしていいかわからない。

皆で集まって海防作を練るのですが、答えが出ない。そこで、国中のお殿様に意見を聞く、これは侍、町民、商人問わない、誰でもいい、海防意見書を求む。

各藩より総数700通の解決書が集まった。その中にあるすぐれた意見書があった。この意見書、内容が具体的で実践的で即有効的で、老中首座の阿部正弘(島の親友、備後福山藩主の子)の目に止まった、阿部正弘痛く感激してこいつ何者や! こんな男が江戸の市中におったんか。とそして
「すぐ城に呼べ!」 彼の名は勝海舟。

彼はこの意見書により、33歳で。幕府の役人に登用されすぐに、「お前長崎に行ってこい、そして将来海軍の長になってくれや!」と徳川家に言われるのです。

長崎に何が有るかと言うと、長崎海軍伝習所。オランダ政府の協力で、欧州で作られた軍艦を持ってきて、軍艦の操縦方法を学ぶ特訓処。

全国から秀才が集まってくる。しかし言葉はオランダ語。全国から秀才が集まるがなんのことやら判らない。通訳が必要。ところが勝海舟はすべてわかる。

教師は勝海舟を頼りにする。最初の教師の中にペレスレイケンというのがいた。このペレスレイケンが勝海舟を何かにつけて外に連れ出し、話の相手にする。勝海舟はその談話の中で、欧州のいろんなことを学ぶ。さてこの教師団が帰り次にやってくるが、その団長がカッテンディーケ。このカッテンディーケが乗ってくるのがヤバン号。のちの海臨丸。のち幕府が購入。勝海舟はこれでアメリカにわたるのですが、690tのスクリュー船です。

カッテンディーケは、軍艦に詳しいだけでなく、国際情勢にも詳しく政治にも詳しく、勝海舟は多くの知識をつける。

この海軍伝習所で、カッテンディーケとあるきながら色々な話をする。幕府の目付役はオランダ語わからない、勝海舟だけわかる、その情報の中に「フランス、イギリス危ないで! 猛獣やで、内輪もめして、ヘトヘトのところをガブリだよ。清国みたいにならないように」この言葉が勝海舟の胸に深く刻まれるのです。

この情報が、江戸無血開城につながっていることは、紛れもない事実でしょう。

さて勝海舟は「軍艦奉行並び」という高い地位にいるのですが、ところが土佐からアポ無しで恐れも知らず訪ねてくるのが、坂本龍馬。彼は脱藩して一年目。28歳、勝海舟は12歳年上ですから40歳。

初対面の坂本龍馬は、

「幕府は外圧に負けて、不平等条約を結び、日本の金がどんどん海外に流れ、朝廷に許可も受けず、こんな不平等条約を結んで、しかもあなたは軍艦奉行なのに、外国の艦隊が来てるのに追っ払う気概も無いのか、情けないと思わないのか」と初対面の勝海舟に畳みかけるのです。

有名な話ですよね。

当時日本は世界でも有数の金保有国でした。みなさん知っていますか? 今まで世界で、掘り出した金の量って、オリンピックプール三杯分です。その一杯分が日本にあった。ところがこの不平等条約で、日本の金が流出するのです。この不平等条約って、金と銀の交換比率が、世界の標準とかけ離れ、日本に不利でした。この詳細は記すると長くなるので省略しますが、日本は当時世界で一番金が取れる国でした。金ってどこで取れるかといえば、火山地帯で取れるのです。日本ってどこほっても温泉あるでしょ。火山帯に金があるのです。

さて、面会した坂本龍馬に対し、勝海舟は、世界地図を坂本龍馬の前に、ばーんと広げ、

「この唐辛子みたいなのがあるやろ、これが日本や。アメリカってこれやぞ、風呂敷みたいな国や、こんな国が、黒船でやって来た、このアメリカよりもっとすごいのがいるんだ。イギリスや。イギリスは日本よりもっと小さいぞ、それなのに、この世界で一番繁栄している。なぜか、それは世界におびただしい船を持っているからだ、日本は島国で世界から孤立しているのではない。海に囲まれている。即ち世界と繋がっているのや。即ち海を握るものが世界を握る。だから日本はそうしたらいい。200300の艦隊を持つことや。金が無いというのなら、その船で貿易して後から返したらいい」

最初、いきまって、勝海舟に食って掛かっていた坂本龍馬ですが、其の日のうちに

「あー海舟先生“! 弟子にしてください」

このことは勝海舟が書いた「氷川清話」という本の中に、「なかなかあの男は気持ちのいい男よ」と書いてある。坂本龍馬はその日のうちに乙女姉さんに、手紙を書く。

「私は勝海舟という日本一の大先生の弟子になりました」 ヤッホーですよ嬉しい!!。

さて先生のおっしゃる通りのことやろうではないですか、そして作られるのが神戸の海軍操練所。その塾長として坂本龍馬がなるのです。

この操練所、身分は問わない、やる気のあるものは来い。高知から岡田以蔵。幕末の四大人斬りの一人、司馬遼太郎には「人斬り以蔵」といわれた男です。

しかし、この操練所、幕府の金で船を買い、幕府の金で訓練し、ところがやっていることって、幕府を倒す訓練をしている。え! 幕府を倒す訓練? これがわかったのがあの有名な大事件。

1864年、池田屋事件です。 続きは「禁門の変から維新へ」を