祭神 : 主祭神 別雷神(ワケイカズチノカミ)
配祀神 天津彦火瓊々杵尊(アマツヒコニホノニニギノミコト)
神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)
鎮座地 : 山陽小野田市厚狭3924番地(厚狭奥ノ浴) アクセス
例祭 : 祈年祭春祭(5月10日 現在は前後の日曜日) 風鎮祭(9月1日 現在は前後の日曜日 秋祭り(10月16日 現在は前後の日曜日) 新嘗祭 社頭講演(12月中旬 )
社殿概要 : 本殿(入母屋造 四坪 享保元年(1716、釣屋(切妻造 7.5坪 明治31年)、拝殿(入母屋造 5坪 明治31年)
由緒 : 平安時代の康保(コウホウ)2年(965年))、厚狭村梶浦(カジウラ)の海中に毎夜光輝現象あり。村人これを拾い上げて見ると石であった。これは霊石なりと、梶の海岸、宮崎の地に祀った。やがて里人に霊夢によるお告げがあり、先ず鴨の庄へ、次に松ヶ瀬の朝鮮山へ、次に随光の観音寺の浄地、次に奥ノ浴野地の峠山(現在地)へと次々に移斎することになった。その後星霜(セイソウ)久しく社殿壊廃(カイハイ)につけ、南北朝時代の永和・康暦(1375~80)の頃、村主の久佐掃部頭(クサソウベカシラ)が社殿を建立した。次いで、江戸時代の寛永14年(1637) 万治3年(1660) 元禄2年(1689)に、再建の棟札が残されている。現在の本殿は、享保(キョウホウ)元年(1716)、拝殿は明治31年(1898)の建立である (旧村社)。
平成18年、社殿の屋根を含め、改修を行った。
又平成23年には式年祭を斎行し、社殿内の祭具を新調した。
通称加茂神社としるすが、本義は賀茂神社である。
奥ノ浴と蔵田幾之進
この加茂神社の横に、奥ノ浴の領主 蔵田幾之進の居館があった。この幾之進は、教法寺事件で殺害され、その遺児、千弥が藩に仇討を願い出たが許されなかった長州藩最後の仇討願と言われている。
開国か攘夷か。長州藩が沸騰していた文久3年(1863)8月18日、下関の教法寺(下関市赤間町)において1人の長州藩士が騎兵隊士に斬殺された。この教法寺における教法寺事件の背景は、壇ノ浦を守備していた先鋒隊が日頃から我こそは長州藩の正規軍であり、騎兵隊は寄せ集めの衆に過ぎないとして騎兵隊を蔑視していた事があげられる。両者の関係がしっくりいかないところに、先鋒隊の一人が、前田砲台守備の騎兵隊へ走ったことがきっかけとなって、双方争いとなった。騎兵隊が、先鋒隊の駐屯していた教法寺を襲撃し、この襲撃の中で、蔵田幾之進が殺害されたのである。殺害された幾之進は、行年34歳、厚狭奥の浴を領し(259石)武術師範で大組士(中級家臣層の武士で、その下には徒士(カチ)、足軽となる。徒士は、徒歩で戦う下級武士。大組士は馬に乗れた。高杉晋作も大組士である。)であった。その遺骨は領地に送られ、蔵田家の墓所に葬られた。
幾之進の遺児千弥は、親の無念を晴らす為、仇討を藩に申し出たが、乱討のため下手人が判別できないとして許されなかった。この時の仇討に代えて
1. 本事件の状況究明
2. 金10両の香下料の下賜
3. 本事件のきっかけとなった先鋒隊より騎兵隊へ走った藩士の切腹
が命じられ、幕となった。
仇討願いについてこのような記録が残されているという。その後の藩籍奉還、廃藩置県そろって復讐禁止の布令等から判断して、これは長州藩における最後の仇討願いとなったのではないかと思われる。太平の世であれば、領地を与えられた人が殺害されたのであるから、かなりの騒ぎとなり、当然犯人の糾明が成された事と思われるが時すでに長州藩同士で争う時代ではなくなっていた。国道2号線と316号線の交差点、丸久厚狭店の角を約5km北上した所が松ヶ瀬。さらに2km山間に入ると奥の浴である。蔵田家の屋敷跡をしのぶ事ができ、加茂神社が現存する。この加茂神社の鳥居は天保3年(1832)建立である。このあたりの人の話では、「昔、蔵田家の前を通るとき村のものは必ずほおかぶりをとらなければならなかった。仇討願いのことは知らないがなんでも大層りっぱな人であったそうな。」ということである。
赤間関防衛、長州内訌戦、戊辰戦争そして明治維新と時代は急速に移っていったが、最後の仇討願いを願出た蔵田千弥にとっては、無念の晴れる事もなく長くも短い激動の時代であったのであろう。
現在蔵田家の末裔は、厚保の原に在住されているとのこと。